しかし、2005年3月16日島根の新聞は1696年日本人たちが鬱陵島と竹島 – 独島に侵入したことに対して朝鮮(韓国)人たち(安龍福など)が抗議した仕事に対して正確にどんなことが起こったのかを知らせてくれる新しい情報を明らかにした。ここに記事要約と写真そして日本の原稿がいる。
右側に、彫り上げの詳細な切れは安龍福が日本である漁夫たちに朝鮮の鬱陵島と子山島(竹島 – 独島)を発つように要求する交渉を描く。彼の勇ましい行動で、幕府は鬱陵島地域渡海禁止令を下げる。この渡海禁止令は1837年日本人が鬱陵島を侵入した以降もう一度下る。
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最近明かされた文書で、安龍福は “日本人は鬱陵島を竹島、そして子山島(朝鮮の名称竹島 – 独島)を松島と呼んで、それらは皆江原道に属する。”と言ったし、朝鮮の8道地図ではこの島々が表示されている。
山陰中央新報はまた発見された文書で何が子山島なのか論難になっていると報道するのに、しかし安龍福の説明に根拠すれば、“竹島は朝鮮で30里、そして竹島で松島までは50里…”と言ったが子山島は現在の竹島 – 独島のようだ。この文書は島根県で数世紀の間居住して来た村川家門文書收藏庫で発見された。
その内容は次のようだ:
長さ: 甲板9.03 メートル(約29.5feet)、底 6.03 メートル(約20feet)
一隻の朝鮮舟は幅が約 3.65 メートル(約12 feet) そして深く 1.2 メートル(4.2 feet)だ。
そのお舟は80石を積むことができる(重さ単位)
二つの帆柱と、二つの帆、一つの背、五つの櫓、二つの無名旗が走っている。
二つの木錨、4 個の梶の木 束ね、こざむしろ、犬皮
乗客数: 11 人
一般人: ()、()、()。3人の名前と彼らの年は記録されなかった。
お坊さん: ()、() 他の 3人の名前は記録されなかった。
安龍福
年: 43歳 。
彼は黒い帽子をかぶって、帽子水晶紐、そして薄ら綿外套を着た。腰には飾り帯をつけたし、そこには漢字字が書いていた。彼は印章を持っていたし、小さな箱、団扇と小さな箱にグィスシゲが入っていた。
金可果年: 年は記録されなかった。
彼は黒い冠を使って無名帯と白ツルマキを着た。彼は団扇を持った。
報告書4ページでは 安龍福と一緒に日本で航海して来た人々に関する詳しい内容だ。
お坊さん:
雷憲、興旺寺主旨
彼は尖ったような三角帽子模様帽子をかぶって首には無名帯をかけた。彼の服は良い実に組んだ服を着たし団扇を持っていた。
己巳、閏三月18日
雷憲はその席で直接書いた文書に金烏印章を取ってくれた。
康煕28年潤三月20日
雷憲は金烏印章を取った文書を見せてくれたしそれは直ちにコピーした。箱は30cm 長さに12cm幅、そして 12cm 高さだった。それは錠が掛かっていたし内側には竹算木, 硯と筆が入っていた。
また雷憲の弟子が1人いたが、彼は33歳の年でお坊さんの訓練過程にあった。上に言及した 安龍福、雷憲、そして金可果3人外に衍習という人だった。彼らは朝鮮八道(下の)を見せてくれて朝鮮 8道の名前を書いた。3 人の中に、安龍福は通訳仕事を担当した。
お舟に違うことも積んだのか問うと、彼が答えるのを塩に漬けた乾いた魚少し、そして食べることができる海草少しがあると言った。舟の内容物リストは後に記録された。
五つお坊さんたちについて問うと、彼が言うのを彼らは竹島(鬱陵島)を見回すために同乗したと言う。
五つお坊さんたちが皆同じな宗派なのか、ある宗派なのかを問うと、雷憲はその名称を筆で書いてくれた。しかし彼の使ったことが何なのか確かに分からなかった。しかし彼の書いたことは翌日(21日) 荷包みリストと患者()の名前と一緒に手紙で ()に送った。
安龍福によれば、“鬱陵島は 竹島だ。彼が言うのをその島は朝鮮の江原道東莱部にある鬱陵島であり、朝鮮はおかゆも島だと呼んだりすると朝鮮八道地図を見せてくれながら言った。松島(竹島 – 独島)は朝鮮八道地図にも記録されている子山島(于山島)でやっぱり江原道に属すると言った。…。”
3月 18日唐子、彼らは朝鮮で朝を食べて、お舟を出発させてその日夕方竹島(鬱陵島)に到着したし、そこで夕飯を食べた。
6ページには 朝鮮で鬱陵島、松島(竹島 – 独島)と日本隱岐島への旅行に対する詳細な内容がある。
13隻の舟たちが竹島(鬱陵島)で出発したが、それぞれ 9人、10人、1人、12人、13人、そして 15人が上舟した。どのようにしてそのように多い舟たちが行ったのかに対する理由は今として分からない。13隻の舟たちの中で12隻が鬱陵島(竹島)で海草を採取して、肉を雑高竹を採取して去った。彼らが言うのをその年にアワビはあまり多くなかったと言った。
安龍福によれば、幕府に抗議するために11人の人々が順風に乗って伯州に到着したと言う。
5月 15日彼らは竹島(鬱陵島)を発って、その日松島(竹島 – 独島)に到着したし、16日には松島(竹島 – 独島)を発って 18日朝隱岐島海岸西村に到着した。そして 20日には 大久村港に到着した。西村海岸は荒くて彼らはその日中村港に行った。19日翌日彼らはそこを発って大久村にあるGayo里港にその日夕方に到着したし、20日に彼らは大久村に行った。
朝鮮を去る時、彼らは米5斗3升(約18リットル)を袋に盛って、13個のお舟に分けて積んだ。彼が言うのをこれからは米があまり残っていないと言った。
彼らは伯州て何種類業務をして、12隻の舟とともに 6月と 7月の間に竹島で品物を積んで伯州主と運商にプレゼントするために伯州に帰る予定だと言った。
竹島(鬱陵島)は江原道東莱部に属して朝鮮王の支配の下、東莱府典の名前を受けている一島傍白だ。竹島(鬱陵島)の官吏名称は東莱府使と安龍福が言った。
8ページ 8ページは安龍福と舟員たちが食べ物に関する何種類問題に対して言っている。日本が4年前11月に準の何種類とともに書北(Seobuk)本一冊をプレゼントした。この本は直ちに写本で作った。
3人の朝鮮人は会談が終わった後、制番人は行って、3人は彼らのお舟で帰って乾いた鮑(アワビ)6切れを持って来て、一つは大久村に与える。
他の五つは諸藩人に丁寧な手紙とともに与えた。しかし彼らは皆返したし手紙終りには少しの果物を要求した。したがって私たちは彼らにちょっと常置と果物、生姜などを与えたし彼らの手紙に対する答信を書いた。
21日、安龍福は手紙を送ったが、そこで彼らは米が落ちたし、夕方に食べ物がないと言った。したがって (…)を送って点検して見なさいと言ったし、食べる米がないことを確認した。安龍福によれば彼らは朝鮮では外国お舟が来れば、食べ物を与えるのに、日本はそうしないのか問った。
(…) はまた言うのを必要な米が提供された後外国船がもし天気が悪くて停泊しなければならなかったのか問って見た。しかし、このお舟で私たちは訴訟をしに来たから十分な米を持って来なかった。彼らは 15日竹島(鬱陵島)を発ってすぐ日本で到着したから前で言ったところのように様式が不足だと言った。お舟を調査して見た結果 3合の米が残っていることを分かるようになった。
現在彼らは米が落ちて食べ物がないと言った。彼らが諸藩所に行く前に、4 升5合の米を与えた。その米は大久村の何人の庶民たちが米 1 斗 2升 5合を与えた。また諸藩で米1 斗2升3合をもっと与えたがこれは韓国数量で 3斗にあたるのだ。二番目米供給は 21日に与えたし、3番目供給は 22日に与えた。
10ページ 安龍福舟員たちの抗議敍述
11人の中で何人の名前と年が知られなかったにもかかわらず、彼らの宗派も知られなかった。そして彼らは伯州に抗議しようとずっととどまった。22日朝、彼らはまだ内容を敍述しなかった。したがって私たちは彼らが 伯州に航海して来た目的を詳しく調査してそこに対して報告をする予定だ。
雷憲が22日、日本に到着した着ていること:白綿コートで荒く麻布で組んだ内皮の帽子は日本の僧侶を現わす。
黙珠を持っただ彼(雷憲)は、仏教禅宗お坊さんみたいだった。そこには数百個の数珠があった。彼は帽子をかぶっていなかった。彼の弟子衍習はそれに似ている服を着ていた。彼の数珠ロザリオは大きさは大きいが、数珠の数字は雷憲の黙珠がもっと多かった。
22日、安龍福、李裨元、雷憲と彼の弟子たちは陸地に上陸しなければならなかったが何故ならば西風が非常に強く吹いてお舟では手紙を書くことができなくて彼らは浜辺近くに提供してくれた小さな家で手紙を書いた。
12ページ報告書からは事件の簡単な要約だ。
ここに報告書からは、21日舟で文を書いたことで、今度訴訟しに来た内容であり、全体的な話がある。22日から陸地で論議が始まった。したがって、文書たちは以前から今まで起こった事に対して記録したのだ。
21日から23日まで風と雨が非常に強く急きまくって、私たちは朝鮮お舟を西鄕で移した。しかしお舟を陸地に移す作業は非常に大変な事だった。お舟と軽子たちは 大久村で移した。18日から始めて西風が非常に強く吹いて、毎日海にあるお舟が通うことができなかった。
22日請願書を 石州に送って (…) 帰って来た (..) そして (..) 大久村に送るためで来た。彼らに飯米と少しの食べ物を供給した。これを見て喜んだ朝鮮人たちは私たちに手紙を与えて私たちは直ちにそれを発送した。文書 (。。)と記録のリストを朝鮮人たちが提出したし (。。)伝達した。報告書て端の部分…5月 23日。
1。白米約3合
2。海草一切符
3。塩一切符
4。鰒一袋
5。薪したという(6尺長さに8寸のぐっすりそして1尺まわり)
6。竹 6個
7。刀一つ(この刀は武器に使うことができないことで品質が悪かった。)
8。個人護身用刀1個(元々目的にもかかわらずこの刀は食べ物を作るのに使われた。したがってこの刀は台所用刀のようだった。)
9。4 個地図り(それらは皆アワビを採取するのに使われたし、一番長いことは 4 尺だった。)
10。一つの長い刀。
11。小さな弓。
12。一箱の矢。
13。二つの帆柱(一つは8拔(yard) 長さで他の6拔だった。その中の一つは竹で作った。)
14。二つの帆(一つは 5 ~ 6 枚そしてまた一つは 4 ~ 5 枚だった。)
15。一つの背(1 枚、4 尺、5寸.)
16。一つの俵幕。
17。10人用布団(その中二つは5尺長さであり、幅は1枚2尺だった。
18。3個の犬皮。
調査した結果は完全に上の内容と一致する。
14ページ 日本の安龍福事件に現われた朝鮮人の名前
1。李裨元
2。金可果
3。柳上工
4。金可官
5。ユがイ
6。安龍福
朝鮮僧侶たち。(興旺寺)
1。雷憲
2。靈律
3。丹責
4。勝淡
5。衍習
上の五人は僧侶であり、全部舟員だった。
15ページは地方のテキスト地図です、そして、道安龍福は竹島(鬱陵島)と竹島 – 独島(松島)を含む韓国の領域として宣言しました。
朝鮮8道(地図文書)
京畿道
江原道竹島(鬱陵島)と松島(竹島 – 独島)は江原道に属している。
全羅道
忠清道
平安道
咸境道
黄海道
慶尚道
この記録は韓国と日本民間人たちの間に紛争になった鬱陵島を韓国で “譲り渡し”した結果を生んだその記録だ。しかし、この紛争は竹島 – 独島所有権に対して明確に解決してくれたのではない。どうして日本は竹島 – 独島がいつから韓国に属するのか確かに言わなかったのか?第一、竹島 – 独島(当時 松島)の大切さは日本にただ鬱陵島に行く中間寄着地だっただけだ。鬱陵島を失えば日本は竹島 – 独島(松島)がこれ以上必要ではなかった。食べる水もない小さな岩島に往復5日がかかる漁撈活動のための航海は日本漁夫たちには何らの価値がなかったのだ。第二、安龍福の主張はその事件後に日本と韓国の間に交流した記録で竹島 – 独島(当時松島)が韓国の江原道の一部という意見に対して日本 幕府が何らの反対しないことが重要な意味を持つ。竹島 – 独島(当時松島)に対して言及しないことは日本がその岩は価値がないから単純に関心を置かないのだ。
安龍福と舟員たちは個人的な布団(毛で組んだ毛布)を持って海洋の露出で自ら身を保護した。彼らはまた相当な焚き物木を準備していたが、これは安龍福と舟員たちが航海した竹島 – 独島(当時松島)が遠くて燃料(木)が不足だということを言ってくれる。これと係わる資料は安龍福がこの地域に対する抗議をする時竹島 – 独島(当時 松島)で飯を炊いていた日本人たちを焚き物で殴ったと言う記録を見られる。
( 安龍福と竹島 – 独島I部を見てください )
私たちはまた安龍福が多くの他のお坊さんたちと一緒に行ったということを意味ありげに思う必要があるのに、これは韓国人たちが単純に紛争の原因を平和的に解決しようとする心だったからだ。したがって多い日本史家たちは安龍福が一人で日本に抗議しに来たのではない特性に対して責めるとか、または攻撃している。したがって、現実的に、“安龍福事件” 名前自体はちょっと誤解されている。
この事件後、数世紀の間韓国と日本史家たちは皆“于山島は日本である呼ぶ竹島 – 独島(当時松島)”と引用した。この重要な歴史的事件は韓国人たちと日本の今日まで領土認識の姿を見せてくれる。