竹島 – 独島問題 なぜ日本は竹島を持てないのか – 2

1905年独島地域政治、経済そして人口そして現在
どうして近代アジアは過去植民地時代に帰ることができないか
竹島(独島)問題: 次ページは1905年前後日本に編入された鬱陵島付属島嶼独島-竹島に関する明確な写真を読者たちに提供しようとするのだ。そこで私たちはこの地域の政治的、経済的そして人口を比べて近代的観点で日本の独島所有を規定しようとする。独島は一方でリアングクル岩礁または日本によって竹島と呼ばれたりした。

1905年状況を説明することはどうして重要なのか?

日本は竹島主張根拠を全面的に1905年リアングクル岩礁(独島)“編入”に置いている。しかし韓国と日本の間の境界は20世紀初までまた引かれなければならなかったのか?このページは日本に編入された独島-竹島地域の人口的政治的差が現われた部分を提供して、そして今のこの地域権利実体の差を見せてくれようとする。

私たちは植民地時代韓国の近代領土制限に帰ることができるか?

詳細な独島–竹島地域地図
下で私たちは何何東海地図たちで地域の韓国、日本そして係わる島々を見られる。他の地図は独島の一番近接した島韓国の鬱陵島を見せている。この鬱陵島地図は独島周辺水域たちに寄り掛かっている漁業港たちだ。このシリーズの他のページで、私たちは20世紀初古い写真を見られるしこれと共に近代写真で植民地時代にどんなに鬱陵島が開発されたのかを分かる。

地図の上左側に見える韓国東海岸、東海、鬱陵島、独島そして日本の隱歧島接した日本だ。右側には韓国の鬱陵島は地図だ。重要漁港玄浦、砂洞、道洞そして苧洞は赤い点で現われている。高解像度絵を見ようとすれば地図たちクリックします。
1905年以前の独島-竹島地域状況
日本民間人たちが韓国の鬱陵島に侵入する
“…どんなに日本民間人の韓国鬱陵島侵犯が独島(竹島)と係わるか..?”

韓国の鬱陵島の島に日本民間である侵犯は日本のリアングクル岩礁(独島)介入と以降島の不法編入の全体的な基本になる。不法居住または密かにスムオでも日本人たちは朝鮮の鬱陵島を通じてリアングクル岩礁(独島)で活動をした。すべての韓国と日本歴史的記録でこれら日本である渡海者たちは無知で、暴力的で非常に攻撃的な人に描写されている。日本外務省官吏自らも不法居住人たちは荒っぽくて潜在的な殺人者で分類した。時間が経ちながら朝鮮役人たちは鬱陵島治めるのを恐ろしがった。

これら渡海者中のどんな人は日本政府によって利用されて日本人たちが彼らの現在竹島独島主張のための“合法的”根拠にした。

中井良三郞で(右側)という韓国の鬱陵島不法滞留日本人は彼がリアングクル岩礁(独島)に住んでいたし占領していたと主張しながら島を賃貸しようとする申し込みをする。現実的に彼の朝鮮の鬱陵島で遂行した動きそして民間である編入はリアングクル岩礁(独島)に海軍望桜建設しようとする日本の実際野心のための単純な“合法的”行動だった。

下で私たちはどんなに日本の外務大臣林権助がこれら攻撃的渡海者たちを追い出すのを拒否して韓国政府の同意なしに日本である警察官を鬱陵島に駐屯させようと思ったのか分かるようになるでしょう。

1899年皇城新聞韓国鬱陵島報告
“..日本である渡海者たちは粉湯を起こしながら木を切って韓国人たちを脅威する..”

1899年皇城新聞鬱陵島報告書からは朝鮮の鬱陵島に関する一般的な消息を伝えて韓国釜山税関に勤めながら1899年6月末日本である不法滞留者そして島に侵入した盗賊の問題を調査するために鬱陵島に行ったE. Laporteの報告書要約本を載せた。記事は韓国外務省が日本のせりふに鬱陵島にいる日本人を放逐するように要求した9月16日以降に書のだ。
“…1895年(開国五百四年に)、内務大臣は島居住民裵季周を監督で任命して島を官吏するようにした。このして見るに(1899)、裵季周は内務大臣に報告するのを多くの日本人たちが最近来て木を切って、居住地を侵犯して、そして紛乱を起こすから政府が法で治めるのを要請した。

これによって内務大臣は韓国海關庶吏John McLeavy Brownを派遣して山で無差別的に良い木木を切って港に運びされた木木が捨値に売れ輸出する島の状況を調査するように命じた。

そこには約200人の日本人たちが家を建てて一時的に暮していた。(不法居住)彼らは地方民たちと争って不適切な関係を結んでいた。日本人たちが製品を売る時、彼らはただ2%の手数料だけ与えたし税金は出さなかった。今年9月に内務大臣は上の報告書を根拠して外務省在韓日本公使に要求して日本人たちの侵入を止めらせて立つことから出ることを要求したし非開港地での密貿易を禁止するように要求した…”(大きいイメージを見ようとすればクリックします)

この役人たちの抗議はリアングクル岩礁(独島)の日本編入以前に記録された。しかし、日本人たちの鬱陵島侵入は数世紀以前からあった事だ。第一不法住人たちの問題は1800年代中盤で後半に日本の新しい明治政府が以前の幕府が鬱陵島と独島航海を厳格に禁止した孤立政策を捨てた時あった(リンクをご覧ください。
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上イメージは20世紀初韓国の鬱陵島に建てた日本である神社写真だ。鬱陵島の東海岸道洞港は島で日本である住人の最大のたまり場だった。(もっと大きいイメージを見ようとすればクリックします)
日本の外務大臣林権助の返事:
“…鬱陵島の日本である渡海者たちは日本の責任ではない…”
“..日本人たちが不法で木を切ったら日本の伐採権利を認めなさい…!”
次の文書たちは鬱陵島状況がどんなに統制されていななのかを見せてくれる。日本人たちは今鬱陵島約8 ヶ所に居住している。たとえロシアは鬱陵島で合法的に伐採権利で認められていたが、日本人たちは無差別的に木を切っている。林権助は日本である渡海者たちを追い出すのを拒否して図図しく韓国がロシアの伐採権利了解を終決させてそれを日本に賣を要求した。これは明確にその問題を扱うことから朝鮮がいくら力がなかったのかをよく説明している。

上文書たちは独島編入以前に鬱陵島の日本である侵入者たちそして不法伐採者たちと係わる韓国問題を記録している。
韓国の鬱陵島での日本政府不法活動記録
“…8月19日.8:40 p.m. Koshi、ソウル。7

貴下の電文 109に言及した状況によって帝国内閣はロシア内閣の日本である 鬱陵島 伐採を中断してくれと言う要求に対してあなたに指示するのを 元山 駐在 二等領事 または釜山 駐在 領事官補 中のひとりを迅速な手段で派遣してその問題を報告するように決めた。同時に帝国内閣は現在韓国内閣に 巨済島を開放するように要求する機会にしてそしてこの瞬間に貴下は私たちの目的のために努力を秘密裡によく遂行するように命ずる。私たちは気を付けなければならないがしかし、私たちは他の強大国たちが韓国に対してこれと類似の要求をするようにする言葉尻を与えてはいけないし、したがって最大限努力を競走してできるだけ獲得するようにするはずで韓国内閣にとってどんな要求もできないようにしなければならないことを熟知しなければならない。

靑木 、東京 144。釜山で送った 高雄書記官 報告書からは次のようだ:

相当なジレンマあげく彼は鬱陵島に上陸した。島には日本人が約100人がいたし彼らは八ヶ所に居住していた。丘が多い島の地形のためそして意思疎通が難しくて彼はすべての場所を見回ることができなかったし、二人の親分にすべての日本人はその所で 11月30日まで発つように命じて去るしかなかったです。

ソウル、18/10. 2:30P.M.(1899-10-18)

靑木 、東京152。鬱陵島 質問と係わって私は日本人たちをその島で発つようにすることは難しいと考えられます。彼らは島を発ちなさいという命を受けたが、しかしこれはただ名目的なことであるだけ日本政府政府が見張ることは難しいです。そしてその上に私は韓国地方政府の認識と共に住人たちがそこにあると信じました。伐採了解に関して私はロシア担当官と韓国外務大臣を観察して、その要請に関する一番良い返事はロシアが権利を日本人に販売することだと思いました。私の機密文書を送ります。機密第九十六号
信日九月□日…”

林権助はだれか? (林公使)
彼はソウル駐在日本外務大臣で1904年2月23日日本-韓国議定書に署名するように韓国政府を強制して脅かす任務を引き受けた人々中の一人だ。そして引き継いだ条約は韓国の権利を編入する段階に進むようになる。(リンクをご覧ください。)事実上、1904年3月林権助によって了解覚書が作成されてそれは翌年に伊藤博文が韓国での日本の膨脹主義政策を広げる青写真になる。
林権助(右側に)やはり日本である地所有のためにロビーをすることで日本日本人たちのために韓国を開放するのに重要な役目を担当した。林権助は日本である民間人たちが韓国領土を購入して登録して定着するように圧迫する役目をした..

彼は名子森 富士喜朗の時でが立案し(名子森 計画の支持者だった。名子森の計画は日本の私的な民間人たちが区域の定着民ではない人に地所有権を認めない条約制限を回避して土地買入を許容するために作ったのだ。林権助も外務大臣以下用とともに日本人たちが彼らの地に対して使う権利を保障する韓国人たちに長期抵当を許容してくれる秘密協約を交渉する。これら抵当取り引きはもし韓国人がローンを引き替えることができなければ地の所有権を渡してやることを約定する取り引きだ。

上記録に見えるように、日本外務大臣林権助は韓国の鬱陵島の問題に対して絶望的な消息を聞く。

“…したがって朝鮮の不法居住日本である退去要請に対する林権助の対応は何だったのか..?”
韓国政府要求のようにこの人々撤収する大臣、林権助は単純にこの要請を拒否して彼は結論下るのを“これら日本人たちは撤収することができない”、そして“彼らは地方政府の認定下に居住していると信じる。”どんなに彼がこの結論に到逹したのか私たちはわからない。林権助の解決策は後で韓国と相議なしにすべての日本である警察が鬱陵島に駐屯するようになる結果を生む。

露日戦争(1904~1905年)ずっと以前に日本人たちの隠密な土地購買が進行されていた。地方政府はたまにこれら取り引きを目をつぶったし、公式的には日本人たちが地を買うことができないようにしたが、しかしもし彼らが断れば何らの事もできなかった。これが韓国の鬱陵島事情だった。

林権助の政治的背景はどうして彼が日本である不法滞留者たちが鬱陵島を発つことを拒否したのかを説明している。第一、林権助は韓国全体を日本に編入させるのに積極螺旋人だ。やっぱりそれは彼が韓国である土地に対して日本人たちの所有権を強く主張して移民を支持したということを理解することができる。日本である鬱陵島渡海者たちに対して目をつぶって彼がすべての目的を易しく果たすことができた。

林権助は意図的に働いた条約を違反した。
日本は不法的に警察を韓国の鬱陵島に派遣する。
1901年後半、林権助は自体手段を講じようと決めて日本である渡海者たちを強制で追い出す代りに警察を駐屯させることに決める。林権助は単純にこれが20年前には日本がもう200人が越える日本である滞留者たちを撤去したからこれが不可能だと思った。不法的に鬱陵島に住む日本の人々は生け魚期には約1,000人が越していた

林権助の自体許可で日本人は鬱陵島で無識で、荒くそして甚だしくは潜在的な殺人者になっていた。彼は彼らの暴力行事が紛争解決の手段だと言った。やっぱりこの手紙には今混乱された鬱陵島を恥ずかしくないように統治しようとする以前韓国人たちの課業に対したことも言及していた。それは鬱陵島で朝鮮治者たちはもうとても怖気づいて彼ら自らの島を統治するのを恐ろしがった。林権助は韓国に日本である警察を一時的にまたは永久的に駐屯させることを一つの選択権で許容した。もっとショッキングなことは彼の自体許可が日-韓条條約規定とも符合しないのだった。私たちが分かるようにたとえ林権助が日本である警察駐屯が不法的と言うのが分かったが、結局彼は日本人たちの退去を拒否した。

日本が韓国の抗議に対してトリック対応を一内容翻訳

“…早く、鬱陵島は図鑑(朝鮮政府官吏)によって統治された。しかしもう新しい統治によってこの島は新しい国家行政官吏姜零雨が治めるようになった。彼はすぐ鬱陵島に到着するはずでその変化の結果図鑑は解職されて今京城(ソウル)に泊まっている。彼はこの島(鬱陵島)の過去そして現在状況に対する消息をよく分かっている。彼のヨヤックムンによれば、そこには裵季周という名前の見えるのに彼は仁川近所の永宗島に住む人だった。彼は鬱陵島に20年前野心を燃やす鬱陵島開発計画を持って来た。不幸にもこの島は人が住まない(周辺まわり 130里)所でそして(韓国)沿岸地域への輸送交通もとても難しかった。このために裵季周は日本である渡海を要請して、彼が隱歧、神戸そして他の地域に個人的に来て島のけやき原木を販売するために接触をした。徐徐に日本人たちは鬱陵島に接触がだんだん無くなった。進んで、これは韓国の人々が島に近付くように手伝ってくれたし、これは鬱陵島定着の基礎になった…”

“…したがって今韓国人の数は鬱陵島に5000-6000人で日本である住人は300-400人だ。たかが1000人の日本人たちだ。日本人たちの人口増減は漁業季節によって係わる。なかでも言及された日本人たちの中に約30-40人はもう家を建てて居住している。この中に多い人々の日本居住民たちが無知でそして荒いがしかし、そこにはどんな政府も彼らを統制することができなかったからだ。住人たちの間のどんな紛争でも暴力と甚だしくは殺人に解決されている。特に韓国人たちと一緒に彼らは物理的力に寄り掛かって、したがって島の行政官は島の統制に障碍がいる…”

“…鬱陵島に居住する事本人たちの退去に関して我が事務室が開設された以来何回韓国政府の要請があった。したがって、私たちは私たちの役人たちをそこに二度派遣してそこ状況を調査したところ、鬱陵島居住韓国であるそしてうちの日本である民間人たちの間の関係は去る数十年の間発展して今日にはもっと強くなった。このために、甚だしくはもし彼らは(日本人)は撤収すると言ってももっと多い日本人たちが鬱陵島に帰って来るようになることは自然な事だ。ここでどんなに問題を解決するか行政官吏裵さんが言うように責任ありげにこの島交通を開発するように要請した人は韓国人たちだ。したがって、この時点で、日本帝国政府は鬱陵島でこれら日本人たちを追い出す責任がない。いっそ、私たちはこの問題をかえって韓国政府の責任で回すのが公正だと結論付ける…..”

“…去年、7月4日付け機密了解覚書 #54で、この問題に関する私の意見の詳細な報告書が作成された。その年7月18日私たちの(日本の)政府は機密了解覚書 #36の指示で返事手紙を送ってだった。これら指示を刻んで見ながら、これ(日本の)官吏は添付された手紙 Aとともに直ちに韓国政府に要求して(韓国の)返事手紙 Bを受けたが、そこには朝鮮の政府が私たちの推薦内容を受け入れることができないというのだった。その結果この官吏は添付された手紙 Cを送って鬱陵島で、外国である宣教師たちは韓国に住むように許容しながらどうして日本人たちは鬱陵島で特に住むことができないように急き立てることは不合理だということを説明した。そこにはまた鬱陵島に住む日本人たちの行動は条約規定に除かれている。私たちはやっぱり非難を浴びなければならない人々は鬱陵島韓国政府やそこにしたがって韓国政府は責任を負わなければならないと思う…。”(引き続き)

上右側: この写真は20世紀後半韓国の鬱陵島に駐屯した日本である警察を見せてくれている。これら警察は鬱陵島日本である渡海者たちを“統制するように”韓国政府の同意を受けなかった.
“…しかし私たちの去年9月12日付け手紙以降で約一年が経ったしそして今日まで私たちは韓国政府から返事を受けることができなかったしそしてこれはあなた側で私たちに返事に対する論駁の手段がないことで解釈している。

新しい行政官が官吏に来る前に、外務大臣、朴斉淳は秘書とともに鬱陵島日本である問題を扱うための可能な方法を論議した。大臣はおっしゃるのを将来赴任する主行政官はこれら日本である住人たちが暴力的だか恐ろしがってどんな仕事が発生するかわからないと言う。彼が聞くには以前の鬱陵島郡守(裵季周)が鬱陵島日本人を扱うのがとても難しいと聞いた。新しい行政官に会った祈っては適切な方案を講ずるように言った。その後新しい郡守(姜永雨)が官庁を訪問して秘書に言い換えた。その返事で私たちの役人たちは秘書を通じて枝選択権を提示した; 韓国が私たちに日本である警察を 鬱陵島に 一時的に毎年駐屯するようにしようが、それとも永久的に駐屯するように許容しなさいというのだ。この提案に対して行政官は彼が可能な方案を捜すと答えたようだ…”

“…したがって、裵季周の記録された大会を見るが、そしてまた(韓国)政府の確かな意図を見るが、もし私たちが島(鬱陵島)にいるうちの日本人たちを法で扱うようになれば私たちは彼らを観察して行動を統制することができると思う。そのようになれば私たちは鬱陵島の住人(日本であるそして韓国たち)の間に相互調和が生じてそこで日本人たちを退去させる必要もない。この方法はもし私たちが編入この島(鬱陵島)を日本帝国の釜山または原産にある領事警察区域で編入させれば一番良いと思う。私たちは警察行政官を二人の警察官吏とともに 6ヶ月または一年ごとに固定的に派遣することができるでしょう。これはソウルにいる私たち領事の警察区域の下にある開城裁判所のような制度で比べることができる。そこには50~60人の日本である住人がいるから、私たちは警察署を持っているしそこに派遣官吏が我が国の人々の行動を見張ること以下で駐屯することができるでしょう。私たちは条約法によって 、これは日本が韓国政府に対して与えられた権利ではないが、しかし現実的に韓国政府は戦略的にこれに同意してそしてどんな反対もしなかった。したがって、もしこの鬱陵島問題がうちの日本である警察がそこに駐屯することができることと考えられたら、単純に我が国の人々の行動を見張って、鬱陵島問題は自ずから解決されるでしょう。したがって、これは問題を予防して、うちの(日本人)を強制で退去させないでこの立場を記述して貴下の意見を問うことだから貴下がどんな考えを持っているのか大臣が何を考慮しているかどうかを支持するあなたの立場をさっそく明らかにしてくれてほしい….”

1902年10月13日、韓国は日本にまた抗議したが成功することができなかった。
“..日本である渡海者たちと警察を鬱陵島で皆退去させなさい..!”
1902年4月に日本である警察は駐屯したし韓国政府はその年秋 10月13日に抗議した。また朝鮮はすべての日本である警察そして渡海者たちを退去させるように要求した。韓国人たちも日本である警察が鬱陵島に住む韓国人たちを不公正に扱うと抗議した。

イメージたちは文書原本たちは鬱陵島で不法日本である滞留者たちを韓国が追放させることができなかったことを記録した文書たちだ。(下の翻訳)
“…鬱陵島に住む日本国籍者たちの強制退去に関する。これはは朴大臣の任期間何回調査された。1900年9月7日、質問番丸64、そこには4 反駁がある。しかし貴下の9月12日付け返事手紙に反駁は捜すことができない。

その代りに貴下の(日本人)手紙にはただ言及するのを“…外国である住人たちが港外に居住するとか都時に居住することは条約で禁止されているということは日本と韓国条約には適用されない。それはやっぱり帰国の他の友好国家にも適用される。しかしどうして韓国政府は他の外国宣教師たちは自由に歩き回るように許容しながらうちの日本人たちを鬱陵島で発ちなさいと要求するか?うちの(日本人)外交官吏は理解することができない。韓国政府か条約で指定した開放地の外ですべての外国である住人たちを放逐しない限り、うちの日本である官吏は私たちの日本人が鬱陵島で発つことができないということと思う…”(引き続き)

“…前で言った貴下の声明(名前)で韓国を旅行する外国である宣教師に対して言わば、すべての外国人たちは私たちが旅行証明書を発給する前に皆韓国の特別法によって申込書を提出した。この外国である旅人たちは韓国政府が發行旅行証明書を持っている。これはウィル条約で“この国の外国人はこの特別なビザを持って旅行するように許容されている…”また特殊な国家の外国語を教える外国である宣教師たちは韓国条約法9条による。

韓国の住宅に一時的に居住する外国人たちは不法的に貿易をするために韓国人の家を買う日本人たちとは違う。こんな条件で医薬業や貿易のために往き来する日本人たちは計算されない。しかし、彼らが以前の宣教師のような目的を持っていたら正当化されることができるでしょう。しかしこれら鬱陵島に住む日本人たちは正当なビザなしに不法的に来た。彼らは不法的に家を建てて地を開墾して無分別に伐木をして、私たち住民たちを害する。このすべての行動たちは絶対に合法的だと言えない…”
….”
(引き続き)

“…私は日本政府で公式的に日本民間人たちを退去させるはずで新しい禁止法を作る文書を受けるために何年を待って来た。まだ何らの行動も取っていなくてこれは我が政府が貴政府から期待するところではない。また江原道搜討使の報告によると、“…日本政府は鬱陵島に警察をズドンシキゴハングックインと日本である間に紛争があれば韓国人だけ逮捕して処罰する…”この報告書で言うことは日本警察の駐屯は確かに条約違反だ。私たちは他の国々がこんな事例に付くか心配する。したがって私は緊急に私たちの深い残念を表示する。

私は彼の事務室でこの問題を深く考察して帰国に詳らかに報告してほしい。そして鬱陵島で警察を撤収させる要請する。私はまた彼の事務室で条約によって一番近い領事館でグィシミンドルを召還するのを要求する。相互友誼を思って心に刻んでくださるように願う…”

上左側:この日本神社は20世紀初韓国の鬱陵島砂洞にあったのだ。日本人たちは1905年リアングクル岩礁(独島)を日本に編入する前に鬱陵島に多い家を建てて暮した。(クリックイメージ)
1902年 10月 29日,日本の大臣林権助と韓国政府
1902年10月29日、日本の大臣に林権助と韓国政府韓国政府にまた渡海者たちと警察日本の退去を拒絶する。
林権助は日本が文書を手紙を韓国に送るのにこれは林権助の韓国の地に対する衝撃的な内容の題目だ。林権助はこんな混乱に対して韓国を責めて朝鮮がこの地域に彼らの航海によって”鬱陵島が開港するようになった”のをありがたく思わなければならないと主張した。実際では1800年代日本は不法的に伐木をしたし税金を脱税して代金を時價以下で支払いながら木材を日本で輸出した。彼の韓国との初期対応で韓国が要求した日本人撤去と係わって彼は韓国に日本警察が駐屯する権利がないと了解したが、彼は簡単に韓国側の要求を無視して警察に攻撃を加える場合“警告狀を發付”すると言った。林権助の言葉どこにも鬱陵島で撤収しなさいという朝鮮の要求を考慮した部分がない。年が経つほど露日戦争が起こると韓国は少しずつ少しずつ日本帝国軍隊が強点するようになった。

“…私は今月13日#115 手紙が意味を理解している。この手紙に貴下は鬱陵島に居住するうちの日本人が撤収することを要求してまた日本警察の駐屯を言った。日本である撤収問題は2年前にもう論議した事がある。貴下側でその年9月私たちの最終公式手紙 #99エデして答信をしなかったから私たちは貴下が私たちの状況を受諾したことで見た。この問題と係わって貴下から他の手紙を受けてみたら非常に驚くべきだ。イルゾンインの定着問題は10年前の前鬱陵島郡守裵季周が人が住まない島を開発しようと計画した時点にさかのぼる。この目的を果たすために私たちは個人的に帰国の鬱陵島で自然的に伸びる木犀の排他的交易のために航海を要請受けた。それが日本である航海の手始めだった。あの時以降帰国の民間人たちも鬱陵島で航海して今日鬱陵島の状況になった。言い換えれば、その開発は私たちの日本人のハングエおかげさまだと言うのが誇張ではない。

上の内容をよく見れば韓国側で日本である住人をもっと保護してくれなければならないことが正しい。ところでもう少しの利益が生じようと思うのに、貴国が条約の法規を根拠で私たち国民を撤収しなさいと言う。これは鬱陵島開発に対する貴国の思いやりが不足だということを見せてくれる。言い換えれば、私たち政府は鬱陵島のこんな歴史的な背景を考慮してくれというのだ。私たち日本警察の派遣と駐屯は朴再巡外務大臣が在任するうちに鬱陵島を姜良友が統治する頃に鬱陵島に居住する日本人を統制しようとする手段で発生した結果だ。今日、貴政府で“条約違反”で責めることは事理に当たらない事だ。貴下の手紙で“…韓国人と日本である間に紛争があれば警察は単純に日本人伝だけ入って韓国人を逮捕して審問する…”と指摘したが、私たちは私たちの警察がそんな事をしたと信じない。私は何か間違ったと思うが、警察監督を送ってその警察を警告してたしなめるように送るつもりだ。したがって私たちは貴国政府でも島が鬱陵島監に言って寛大な法を執行するように期待して特に鬱陵島警察問題に対してそのようになるのを希望するところです。この報告書と係わって貴下の貴い高見を待ちます私は今月13日#115 手紙が意味を理解している。この手紙に貴下は鬱陵島に居住するうちの日本人が撤収することを要求してまた日本警察の駐屯を言った。日本である撤収問題は2年前にもう論議した事がある。貴下側でその年9月私たちの最終公式手紙#99にところして答信をしなかったから私たちは貴下が私たちの状況を受諾したことで見た。この問題と係わって貴下から他の手紙を受けてみたら非常に驚くべきだ。日本人の定着問題は10年前の前鬱陵島郡守裵季周が人が住まない島を開発しようと計画した時点にさかのぼる。この目的を果たすために私たちは個人的に帰国の鬱陵島で自然的に伸びる木犀の排他的交易のために航海を要請受けた。それが日本である航海の手始めだった。あの時以降帰国の民間人たちも鬱陵島で航海して今日鬱陵島の状況になった。言い換えれば、その開発は私たちの日本人の航海おかげだと言うのが誇張ではない。

上の内容をよく見れば韓国側で日本である住人をもっと保護してくれなければならないことが正しい。ところでもう少しの利益が生じようと思うのに、貴国が条約の法規を根拠で私たち国民を撤収しなさいと言う。これは鬱陵島開発に対する貴国の思いやりが不足だということを見せてくれる。言い換えれば、私たち政府は鬱陵島のこんな歴史的な背景を考慮してくれというのだ。私たち日本警察の派遣と駐屯は朴再巡外務大臣が在任するうちに鬱陵島を姜良友が統治する頃に鬱陵島に居住する日本人を統制しようとする手段で発生した結果だ。今日、貴政府で“条約違反”で責めることは事理に当たらない事だ。貴下の手紙で“…韓国人と日本である間に紛争があれば警察は単純に日本人を助けて韓国人を逮捕して審問する…”と指摘したが、私たちは私たちの警察がそんな事をしたと信じない。私は何か間違ったと思うが、警察監督を送ってその警察を警告してたしなめるように送るつもりだ。したがって私たちは貴国政府でも島が鬱陵島監に言って寛大な法を執行するように期待して特に鬱陵島警察問題に対してそのようになるのを希望するところです。この報告書と係わって貴下の貴い高見を待ちます…”

鬱陵島状況に対する日本の1902年報告書
“鬱陵島の日本である不法住人たちは無知で暴力的で統制不能だ….”
1902年日本の報告書には鬱陵島不法滞留者に対して詳らかに報告をしているのに、日本滞留者たちがいくら韓国本土人たちを暴悪に扱うのか描いている。状況がここまで悪くなったことは韓国の領土で不法をやらかした不法移民者たちを統制するために日本警察を呼んで来たからだ。
日本である住人たちの一般的な状況:

“…より一層多くの日本人たちがこちら(鬱陵島)に来るようになると、悪い人々も来るようになることは自然な事でここで規制が必要にた。ここで日本人の商工団体が必要になったしいわゆる 日商組合が誕生するようになるのに、二人を選出して居留民を保護するようにした。しかし、居留者数が徐徐に大規模に、法的な強制だけでは統制しにくくなった。その上に大部分の移住者たちが無識で無知だったから、二つの集団ができた。強者が弱者を服従させて、謀の多い人々は無知な者を欺いた。また極端的な場合で、悪い人々は危ない武器で財産を強奪した。

良い人々は悪い人々を統制することができなかったからひどい被害を被った。したがって明治24年6月(1902年)、地域社会の重要な人々が集まって正常な人々と会議をして協会を結成することに決めた。老けて悪い人をかけて出すために彼らは会長と副会長を選出して給料はなしに顧問ひとりだけ給料を支払った…” (引き続き)

“…この人々はまた15人の名誉代表を選出して彼ら下で働くようにしたし会議と判決で発生する問題と事件を扱うようにした。協会はまた法律を強化するように力をつくした。例えば、彼らは罪人たちを新たに作った留置場に行かせて犯罪を反省するようにしたし、重犯罪人罪をやらかした者は本国(日本)の警察署に行かせた。

今年1月4日二つの集団の間に論難が起った。以前の協会長が伐採師たちを説得させて現協会を崩壊させようと思ったし、他の人々はその協会を去って味方で入って来るように説得した。現在の会長は仲裁を通じて問題を解決しようとすべての手段を動員して労力したが、失敗して自分たちが去る事にした。ここに鬱陵島駐在日本人たちは二つの集団で分けられた。居留民の3/4が協会を去ったし 1/4か残った。

二つの集団は営業取り引きだけでなく日常的な取り引きでも対立した。協會が衰退して栄えることができなくなったが、彼らは秩序を維持して絶対に相手集団に屈従しなかった。。その年4月23日外務省は鬱陵島に警察交番を建てることに決めた….“

上左側写真: 韓国鬱陵島にある多くの日本神社中の一つ。遠くある山に木がないことを見ろ。20世紀初に鬱陵島の“豊かな山林”は消えた。
1902年鬱陵島の人口
1902年鬱陵島の日本である住人数と居住地域
右側イメージは鬱陵島に関する日本報告書には1902年傾の日本人と韓国人の家具数字がある。下の1905年地図は日本が独島を編入する前に鬱陵島に不法滞留する日本人たちが‘臨時村’(日本人部落居留)を建設した所を見せてくれる。こんな不法居住地は地図にこの二重丸に表示されているし一つの丸表示は韓国人の居住地だ。この地図は日本帝国海軍の望桜が1904~1905年露日戦争の間鬱陵島に建てられたことを見せてくれる。
道洞–韓国である27 人; 日本である 36人
(伏洞)– 韓国である 10人; 日本である2人
(中嶺)– 韓国である 30人; 日本である2人
(通亀尾)– 韓国である20人; 日本である 5 人
(窟巌)– 韓国である 7人
(山幕谷)– 韓国である26人
(香木洞)– 韓国である 17人
(新村)– 韓国である 35 人; 日本である 1人
(錐山)– 韓国である 7人; 日本である 1人
(千年浦)– 韓国である 6人
(天府洞)– 韓国である 16人
(亭石洞)– 韓国である20人
(乃守田)– 韓国である 11人; 日本である2人
(砂工南)– 韓国である2 人
砂洞(砂洞)– 韓国である 40人; 日本である2人
(新里)– 韓国である 7人
(間嶺)– 韓国である 10人
(南陽洞)– 韓国である 57人; 日本である 9人
(水層)– 韓国である 1人; 日本である 1人
(台霞洞)– 韓国である 34人; 日本である 6人
(玄浦)– 韓国である 50人
(光岩)– 韓国である 10人
(羅里洞)– 韓国である 30人
(昌洞)– 韓国である 6 人; 日本である2人
(竹岩)– 韓国である 11人; 日本である 5人
(臥逹里)– 韓国である2 人
(苧洞)– 韓国である 62 人; 日本である 5人
どうして日本は独島–竹島を持つことができないか、1905年独島と現在
1905年と現在鬱陵島独島地域人口
何1905年度文書では当時の鬱陵島絵をよく描いた。先に1902年日本の一番目測量時の状況は日本である滞留者たちが1902年位には鬱陵島全体に広がっていたことを見られる。甚だしくは理論外交官たちはこの人々が無知えて攻撃的で暴力的犯罪者だと記述している。ソウル駐在外務大臣林権助は“この者等は物理的な力で解決しなければならない…”と評した。

どんな日本報告書では日本居留民たちが全体人口の20%に達したと言う。しかしaようさには200人の漁夫たちが渡って来てから人口が1000人に達する。今日1000人の韓国人たちが鬱陵島に住むのに、独島と鬱陵島官吏は鬱陵島道洞官庁でする。

鬱陵島独島地域政治、1905年と現在。
1900年代初までにしても韓国は鬱陵島に対する統制能力を喪失していた。上の通信連絡で見て日本滞留者たちは韓国居住者たちを圧倒した。韓国政府はこれら不法滞留者たちを放逐するために数次命令を下しているが、日本政府はその要求を簡単に無視してしまう。

1902には鬱陵島は日本警察によって統制される。1904年露日戦争の間、鬱陵島は日本海軍に占領されて3個の軍事警戒所と電信通信所が建設された。その後一ヶ月ぶりに独島は日本に編入されて韓国海岸への接近とその後一ヶ月ぶりに独島は日本に編入されて韓国海岸への接近と內陸地で進入が自由になった。(下の文書を見て)もちろんこの当時鬱陵島鬱陵島監は鬱陵島と独島を皆管轄した。1905年当時韓国水域で日本は漁撈と航海の自由がなかった。

上の文書はアメリカ外交部から出たことで林権助が日本が独島を編入した後一ヶ月ぶりにどんなに韓国海岸と本土に近付こうとしたのかを見せてくれる。また詳しい文書は日本の最近獲得した韓国外交“権利”監督権を現わしている。
どうして日本は独島–竹島を持つことができないか: 結論
“韓国は日本の植民地時代おり帰らないだろう…!!”
鬱陵島が1905年日本帝国海軍が独島を編入する前から日本の島でなって行くあったと言うことは誇張されたものではない。政治と人口要では古代韓国の領土で日本の植民地に変わって行っていた。徐徐に韓国人たちは競争することができなかったし鬱陵島で押し寄せた。実際に1905年日本が独島を占めた時、日本と韓国の間には境界が全然なかった。日本不法滞留者、密輸業者、密獵者そして侵入者たちは何らの麻を受けないで鬱陵島自然資源と周辺水域に近付くことができた。これは日本の過去に対する歴史的な背景だ。(そして現在)独島に対する主張だ。言及したところの同じく、韓国の鬱陵島に不法で滞留した人々中のひとつの中井養三郞では日本の独島編入の全体土台になった。 (リンク1) (リンク2)
国際法上に独島-竹島の獲得は日本と韓国の現代境界で決まるでしょう。今日、日本政府は1905年の歴史的与件で韓国の領土限界をまた規定するように願っている。これは独島問題を解決するのに実質的な接近になることができない。また現在の限りである海洋条約でも許容されることができない前提だ。

日本外務省は韓国を過去植民地時代お引く労力して鬱陵島韓国の居留者を現在の海洋境目引く労力して言う。日本は島根県をけしかけて6世紀以降韓国地になった島の玄関をたたくようにしている。歴史は私たちに国境は固定されたのではなく流れることだと教えてくれる。海洋境目を植民地時代おりまたさかのぼって引くことはソ連共産主義にまた降伏することと違いない。韓国と日本は独島-竹島問題を解決するにおいて日本が最終的に東北アジアの状況は1905年当時の状況とはあんまり違いという事実を納得する時だけ解決されることができる。