日本幕府は公式的に鬱陵島と竹島を日本領土から除外させた。
幕府が因幡州に質問した内容(日本文)
2.“…竹島(鬱陵島)の大きさはいくらか?人々は住んでいるか?”
3.“…竹島(鬱陵島)に海産物を採取しに去る日はいつか?彼らは毎年細いかまたはたまに細いか?何を狩るか?そっちへ行く滲む多いか?”
4.“…3-4年前、韓国人たちがそこで狩ることを見たがその中二人は人質に取った。韓国の人々はその前にもそこへ行ったのか?それとも彼らは2年間の外へ来なかったのか?”
5.“…彼らは去る2年の間そこにあったのか?”
6.“…去年に行ったことはいつか?どれだけ多い舟たちがそこにあるか?? そしていくら多い人たちがそこにあるか?”
7.“…二つの地域管轄中に竹島(鬱陵島)以外の他の島もあるか?これら二つの地域人々は彼らの漁業をして島に集まっているか..?”
幕府の鬱陵島と独島に関する因幡州の返事(日本文)
一竹島は、因幡・伯耆に附属してはおりません。伯耆国米子町の人、大谷九右衛門、村川市兵衛と申す者が、海を渡って漁をしているのは、松平新太郎(池田光政)が(因幡・伯耆を)領国としていた時(1617~1632年)、御奉書(幕府老中が発行した文書)によってご指示があったと聞いております。それ以前に渡海していたこともあるように聞いておりますが、そのことについては知りません。
一竹島の周囲は、約8~9里程度とのことで、人は暮らしておりません。
一竹島へ猟採に行く時期は、2月、3月頃、米子から船出します。毎年行っております。あの島で蚫・みち(アシカ)の猟を行います。船数は大小2艘で行きます。
一4年以前申年に朝鮮人があの島へやって来た時船頭たちが朝鮮人と逢ったことはその時
ご連絡しております。翌酉年も朝鮮人がきていましたので、船頭たちは逢い、朝鮮人2人を連れ、米子へ帰りましたが、その時もご連絡し、長崎へ送りました。戌年は、難風に遭い、あの島へ着岸しなかったことはご連絡しております。今年も、渡海しましたが、異国人が数多く見えたため、着岸せずに帰る際、松島で蚫を少々採りました。右のことはご連絡しております。
一申年に朝鮮人がやって来た際は、11艘の船のうち6艘が難風に遭い、残り5艘があの島に留まり、53人がいました。酉年は、舟3艘、人が42人来ておりました。今年は、舟数が多く、人も多く見えました。着岸しなかったので、はっきりしたことはわかりません。
一竹島、松島、その他、両国(因幡・伯耆)に附属する島は、ありません。
《この間、幕府から鳥取藩に対し、「松島」に関する問い合わせがあったと考えられる》>
1695年幕府の質のに対する返事翻訳
2. “…島はまわりが約8 または9里(36kms)そして誰も暮さない…”
3. “…狩りと採取期は2月ないし 3月にそして米子で出発する。彼らは毎年行くのに、ミミガイを取ってそしておっとせいを捕る。彼らは多様な二倍を利用する…”
4. “…4年前、朝鮮人々島へ来て私たち漁夫たちに会ったがこれはあの時記録されたのだ。翌年、朝鮮人々ずっと来て私たち漁夫たちと対立されて二人を米子で連れて来たしそれが記録されたし彼らは長崎に行かせた…”
5. “…翌年願うことが荒くてその島には誰も関心がなかったことで見なされた。今日に、渡海がまた行われたが多くの外国人たちが見えてしたがって彼らは関心を置かないでその島を発った。帰って来る途中に松島でミミガイを捕った…”
6. “…4年前、朝鮮人々が来たが彼らは11尺の船に乗って来た。6尺は荒い待ち惚けを食ったしそして残り 5尺の船は島(竹島)にとどまったが53人の人々がいた。翌年42人の人々が3尺の船で来た。今日に、多くの船舶たちと多くの人々が現われた。そして関心がほとんどなくて残りはよくアヌンバがない…”
7. “…竹島(鬱陵島)そして松島(独島)その外に二つの県に属する他の島はない…”
鳥取(Shimane)県の何種類地図を位置参照にする。
下の右側地図は島根(鳥取)県詳細島なのに竹島そして松島で日本である渡海する位置を詳しく見せてくれている。上の記録で私たちはこれらが米子時で毎年出発することを分かる。米子は逆に書いている(米子)そして桃色で塗られた部分は伯耆国だ。伯耆ー横には因幡国が赤く塗られている。(大きいイメージを見ようとすれば地図をクリックします)
1877年度鬱陵島の調査–17世紀渡海のまた他の記録
1877年鬱陵島と独島の歴史的背景に関する調査の翻訳だ。
1877年の鬱陵島と「他の島」についての報告書に関する記事。
一見に見える木木は高麗松、香木、荒僻木、あべまき、楢柏、桐、椴木 、日本松、竹、淡竹、野生にんじん、韭菜 、フキ、生姜、百合、牛蒡、菩提樹、覆盆子、王虎杖根、層層木がある。
動物たちは海鹿、猫、鼠、多くの種の荏雀、鳩、野生鴨、カワラヒワ、からふとかくらひわ、つばめ、黒い鷲、罵、鴎、大きい荏雀などだ。そして辰砂と孔雀石が出る。
魚類たちと貝類たちはあまりにも多くてすべて列挙することができない。(島)には海鹿と鰒が生産される。鰒を捕るためには、夕方に海に竹を垂れて朝になれば鰒は竹葉に付いている。味はとても良い。そして私たちは海鹿から油何斗を得た。
次に“また他の島”松島(独島)は周辺まわり 30 町、それは竹島(鬱陵島)行く途中にある。隱歧で距離(通り)は80里。木と竹が珍しくある。島では魚類たちとおっとせいがやっぱり生産される。
永禄 時代に上である 大屋甚吉(Ohya Jinkichi)[後に名前を変えて 大谷ラする]と言う 伯耆国 会見郡 米子町(現鳥取県米子時)に住んだし 越後(Echigo; 新潟県)から帰って来る途中に台風に会って鬱陵島に寄着した。彼は全体島を調査して魚類たちが豊かで貝類たちが多さを分かるようになった。帰国した日、米子ソング検視官阿部四郞五郞にその主旨を申し込んで以降、航海を申し込んだ。阿部さんが江戸に紹介して、(渡海)許可書を得た。元和4年(1618)5月16日の仕事だ…. “
日本人の鬱陵島と独島渡海の真実
“..私どもが聞くにはもう前から伯耆米子から竹島(鬱陵島)で航海があったと言うのに私どもも行こうとするのです。米子の村川 Icihibeそして大谷 ジンキチの申し込みに関して、私たちは幕府に建議して反対がなかったし彼らの要請を承認したので私どもはこれを貴下にご遠慮伝達するところです。
Nagaiシナノ-ノ-カミナオマサ
Inoueカズエノ-カミマサツで
きゅうりOhino加美トシカツ
サがイウタノ-カミ乗るから
マツダだからShintaro(鳥取領主)貴下…”
この許諾は単純に航海のためのことで、日本が主張することのように地を承認したことまたは“封建領地”ではないことを注意深く見ろ。
上右側そばのイメージたちは鬱陵島歴史に関する日本の1877年言及文書原本たちだ。これは竹島そして松島渡海は伯耆国米子市(伯耆国 会見郡 米子町)で遂行されていることを確認させてくれている。の下文書明るく表示された部分を見ろ。上写真は伯耆ーまたは因幡国の一部ではないという結論を下してくれる。(もっと大きい絵で見ようとすればイメージをクリックします)
1695年12月24日鳥取県記録。証拠に即した結論
上論議は老中阿部豊後守が 1696年鬱陵島問題言及で管理を処罰する直前に起こった事でそしてそれは幕府の決定に影響を与えたと信じられる.公式記録の言及は“…はじめから島は朝鮮から力で取したのでもなくてしたがって、朝鮮で返すということも話にならない。…”そしてこれは竹島が古代から朝鮮の固有領土というのだ.これは明確に幕府が 3 年にその決定を覆したという根拠になる。
したがって、歴史的データとして幕府が意識的に竹島(鬱陵島)と松島(独島)を区別したという記録はないし、したがって松島(独島)は竹島(鬱陵島)に附属した島だと認識しただけだ。これは当時に一般的に受け入れられた思が間違いない。