1905年状況を説明することはどうして重要なのか?
私たちは植民地時代韓国の近代領土制限に帰ることができるか?
韓国の鬱陵島の島に日本民間である侵犯は日本のリアングクル岩礁(独島)介入と以降島の不法編入の全体的な基本になる。不法居住または密かにスムオでも日本人たちは朝鮮の鬱陵島を通じてリアングクル岩礁(独島)で活動をした。すべての韓国と日本歴史的記録でこれら日本である渡海者たちは無知で、暴力的で非常に攻撃的な人に描写されている。日本外務省官吏自らも不法居住人たちは荒っぽくて潜在的な殺人者で分類した。時間が経ちながら朝鮮役人たちは鬱陵島治めるのを恐ろしがった。

中井良三郞で(右側)という韓国の鬱陵島不法滞留日本人は彼がリアングクル岩礁(独島)に住んでいたし占領していたと主張しながら島を賃貸しようとする申し込みをする。現実的に彼の朝鮮の鬱陵島で遂行した動きそして民間である編入はリアングクル岩礁(独島)に海軍望桜建設しようとする日本の実際野心のための単純な“合法的”行動だった。
下で私たちはどんなに日本の外務大臣林権助がこれら攻撃的渡海者たちを追い出すのを拒否して韓国政府の同意なしに日本である警察官を鬱陵島に駐屯させようと思ったのか分かるようになるでしょう。

これによって内務大臣は韓国海關庶吏John McLeavy Brownを派遣して山で無差別的に良い木木を切って港に運びされた木木が捨値に売れ輸出する島の状況を調査するように命じた。
そこには約200人の日本人たちが家を建てて一時的に暮していた。(不法居住)彼らは地方民たちと争って不適切な関係を結んでいた。日本人たちが製品を売る時、彼らはただ2%の手数料だけ与えたし税金は出さなかった。今年9月に内務大臣は上の報告書を根拠して外務省在韓日本公使に要求して日本人たちの侵入を止めらせて立つことから出ることを要求したし非開港地での密貿易を禁止するように要求した…”(大きいイメージを見ようとすればクリックします)
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“..日本人たちが不法で木を切ったら日本の伐採権利を認めなさい…!”
貴下の電文 109に言及した状況によって帝国内閣はロシア内閣の日本である 鬱陵島 伐採を中断してくれと言う要求に対してあなたに指示するのを 元山 駐在 二等領事 または釜山 駐在 領事官補 中のひとりを迅速な手段で派遣してその問題を報告するように決めた。同時に帝国内閣は現在韓国内閣に 巨済島を開放するように要求する機会にしてそしてこの瞬間に貴下は私たちの目的のために努力を秘密裡によく遂行するように命ずる。私たちは気を付けなければならないがしかし、私たちは他の強大国たちが韓国に対してこれと類似の要求をするようにする言葉尻を与えてはいけないし、したがって最大限努力を競走してできるだけ獲得するようにするはずで韓国内閣にとってどんな要求もできないようにしなければならないことを熟知しなければならない。
靑木 、東京 144。釜山で送った 高雄書記官 報告書からは次のようだ:
相当なジレンマあげく彼は鬱陵島に上陸した。島には日本人が約100人がいたし彼らは八ヶ所に居住していた。丘が多い島の地形のためそして意思疎通が難しくて彼はすべての場所を見回ることができなかったし、二人の親分にすべての日本人はその所で 11月30日まで発つように命じて去るしかなかったです。
ソウル、18/10. 2:30P.M.(1899-10-18)
靑木 、東京152。鬱陵島 質問と係わって私は日本人たちをその島で発つようにすることは難しいと考えられます。彼らは島を発ちなさいという命を受けたが、しかしこれはただ名目的なことであるだけ日本政府政府が見張ることは難しいです。そしてその上に私は韓国地方政府の認識と共に住人たちがそこにあると信じました。伐採了解に関して私はロシア担当官と韓国外務大臣を観察して、その要請に関する一番良い返事はロシアが権利を日本人に販売することだと思いました。私の機密文書を送ります。機密第九十六号
信日九月□日…”

彼は名子森 富士喜朗の時でが立案し(名子森 計画の支持者だった。名子森の計画は日本の私的な民間人たちが区域の定着民ではない人に地所有権を認めない条約制限を回避して土地買入を許容するために作ったのだ。林権助も外務大臣以下用とともに日本人たちが彼らの地に対して使う権利を保障する韓国人たちに長期抵当を許容してくれる秘密協約を交渉する。これら抵当取り引きはもし韓国人がローンを引き替えることができなければ地の所有権を渡してやることを約定する取り引きだ。
上記録に見えるように、日本外務大臣林権助は韓国の鬱陵島の問題に対して絶望的な消息を聞く。
露日戦争(1904~1905年)ずっと以前に日本人たちの隠密な土地購買が進行されていた。地方政府はたまにこれら取り引きを目をつぶったし、公式的には日本人たちが地を買うことができないようにしたが、しかしもし彼らが断れば何らの事もできなかった。これが韓国の鬱陵島事情だった。
林権助の政治的背景はどうして彼が日本である不法滞留者たちが鬱陵島を発つことを拒否したのかを説明している。第一、林権助は韓国全体を日本に編入させるのに積極螺旋人だ。やっぱりそれは彼が韓国である土地に対して日本人たちの所有権を強く主張して移民を支持したということを理解することができる。日本である鬱陵島渡海者たちに対して目をつぶって彼がすべての目的を易しく果たすことができた。
林権助の自体許可で日本人は鬱陵島で無識で、荒くそして甚だしくは潜在的な殺人者になっていた。彼は彼らの暴力行事が紛争解決の手段だと言った。やっぱりこの手紙には今混乱された鬱陵島を恥ずかしくないように統治しようとする以前韓国人たちの課業に対したことも言及していた。それは鬱陵島で朝鮮治者たちはもうとても怖気づいて彼ら自らの島を統治するのを恐ろしがった。林権助は韓国に日本である警察を一時的にまたは永久的に駐屯させることを一つの選択権で許容した。もっとショッキングなことは彼の自体許可が日-韓条條約規定とも符合しないのだった。私たちが分かるようにたとえ林権助が日本である警察駐屯が不法的と言うのが分かったが、結局彼は日本人たちの退去を拒否した。
“…したがって今韓国人の数は鬱陵島に5000-6000人で日本である住人は300-400人だ。たかが1000人の日本人たちだ。日本人たちの人口増減は漁業季節によって係わる。なかでも言及された日本人たちの中に約30-40人はもう家を建てて居住している。この中に多い人々の日本居住民たちが無知でそして荒いがしかし、そこにはどんな政府も彼らを統制することができなかったからだ。住人たちの間のどんな紛争でも暴力と甚だしくは殺人に解決されている。特に韓国人たちと一緒に彼らは物理的力に寄り掛かって、したがって島の行政官は島の統制に障碍がいる…”

“…去年、7月4日付け機密了解覚書 #54で、この問題に関する私の意見の詳細な報告書が作成された。その年7月18日私たちの(日本の)政府は機密了解覚書 #36の指示で返事手紙を送ってだった。これら指示を刻んで見ながら、これ(日本の)官吏は添付された手紙 Aとともに直ちに韓国政府に要求して(韓国の)返事手紙 Bを受けたが、そこには朝鮮の政府が私たちの推薦内容を受け入れることができないというのだった。その結果この官吏は添付された手紙 Cを送って鬱陵島で、外国である宣教師たちは韓国に住むように許容しながらどうして日本人たちは鬱陵島で特に住むことができないように急き立てることは不合理だということを説明した。そこにはまた鬱陵島に住む日本人たちの行動は条約規定に除かれている。私たちはやっぱり非難を浴びなければならない人々は鬱陵島韓国政府やそこにしたがって韓国政府は責任を負わなければならないと思う…。”(引き続き)
新しい行政官が官吏に来る前に、外務大臣、朴斉淳は秘書とともに鬱陵島日本である問題を扱うための可能な方法を論議した。大臣はおっしゃるのを将来赴任する主行政官はこれら日本である住人たちが暴力的だか恐ろしがってどんな仕事が発生するかわからないと言う。彼が聞くには以前の鬱陵島郡守(裵季周)が鬱陵島日本人を扱うのがとても難しいと聞いた。新しい行政官に会った祈っては適切な方案を講ずるように言った。その後新しい郡守(姜永雨)が官庁を訪問して秘書に言い換えた。その返事で私たちの役人たちは秘書を通じて枝選択権を提示した; 韓国が私たちに日本である警察を 鬱陵島に 一時的に毎年駐屯するようにしようが、それとも永久的に駐屯するように許容しなさいというのだ。この提案に対して行政官は彼が可能な方案を捜すと答えたようだ…”
“…したがって、裵季周の記録された大会を見るが、そしてまた(韓国)政府の確かな意図を見るが、もし私たちが島(鬱陵島)にいるうちの日本人たちを法で扱うようになれば私たちは彼らを観察して行動を統制することができると思う。そのようになれば私たちは鬱陵島の住人(日本であるそして韓国たち)の間に相互調和が生じてそこで日本人たちを退去させる必要もない。この方法はもし私たちが編入この島(鬱陵島)を日本帝国の釜山または原産にある領事警察区域で編入させれば一番良いと思う。私たちは警察行政官を二人の警察官吏とともに 6ヶ月または一年ごとに固定的に派遣することができるでしょう。これはソウルにいる私たち領事の警察区域の下にある開城裁判所のような制度で比べることができる。そこには50~60人の日本である住人がいるから、私たちは警察署を持っているしそこに派遣官吏が我が国の人々の行動を見張ること以下で駐屯することができるでしょう。私たちは条約法によって 、これは日本が韓国政府に対して与えられた権利ではないが、しかし現実的に韓国政府は戦略的にこれに同意してそしてどんな反対もしなかった。したがって、もしこの鬱陵島問題がうちの日本である警察がそこに駐屯することができることと考えられたら、単純に我が国の人々の行動を見張って、鬱陵島問題は自ずから解決されるでしょう。したがって、これは問題を予防して、うちの(日本人)を強制で退去させないでこの立場を記述して貴下の意見を問うことだから貴下がどんな考えを持っているのか大臣が何を考慮しているかどうかを支持するあなたの立場をさっそく明らかにしてくれてほしい….”
その代りに貴下の(日本人)手紙にはただ言及するのを“…外国である住人たちが港外に居住するとか都時に居住することは条約で禁止されているということは日本と韓国条約には適用されない。それはやっぱり帰国の他の友好国家にも適用される。しかしどうして韓国政府は他の外国宣教師たちは自由に歩き回るように許容しながらうちの日本人たちを鬱陵島で発ちなさいと要求するか?うちの(日本人)外交官吏は理解することができない。韓国政府か条約で指定した開放地の外ですべての外国である住人たちを放逐しない限り、うちの日本である官吏は私たちの日本人が鬱陵島で発つことができないということと思う…”(引き続き)

韓国の住宅に一時的に居住する外国人たちは不法的に貿易をするために韓国人の家を買う日本人たちとは違う。こんな条件で医薬業や貿易のために往き来する日本人たちは計算されない。しかし、彼らが以前の宣教師のような目的を持っていたら正当化されることができるでしょう。しかしこれら鬱陵島に住む日本人たちは正当なビザなしに不法的に来た。彼らは不法的に家を建てて地を開墾して無分別に伐木をして、私たち住民たちを害する。このすべての行動たちは絶対に合法的だと言えない…”
….” (引き続き)
私は彼の事務室でこの問題を深く考察して帰国に詳らかに報告してほしい。そして鬱陵島で警察を撤収させる要請する。私はまた彼の事務室で条約によって一番近い領事館でグィシミンドルを召還するのを要求する。相互友誼を思って心に刻んでくださるように願う…”
上の内容をよく見れば韓国側で日本である住人をもっと保護してくれなければならないことが正しい。ところでもう少しの利益が生じようと思うのに、貴国が条約の法規を根拠で私たち国民を撤収しなさいと言う。これは鬱陵島開発に対する貴国の思いやりが不足だということを見せてくれる。言い換えれば、私たち政府は鬱陵島のこんな歴史的な背景を考慮してくれというのだ。私たち日本警察の派遣と駐屯は朴再巡外務大臣が在任するうちに鬱陵島を姜良友が統治する頃に鬱陵島に居住する日本人を統制しようとする手段で発生した結果だ。今日、貴政府で“条約違反”で責めることは事理に当たらない事だ。貴下の手紙で“…韓国人と日本である間に紛争があれば警察は単純に日本人伝だけ入って韓国人を逮捕して審問する…”と指摘したが、私たちは私たちの警察がそんな事をしたと信じない。私は何か間違ったと思うが、警察監督を送ってその警察を警告してたしなめるように送るつもりだ。したがって私たちは貴国政府でも島が鬱陵島監に言って寛大な法を執行するように期待して特に鬱陵島警察問題に対してそのようになるのを希望するところです。この報告書と係わって貴下の貴い高見を待ちます私は今月13日#115 手紙が意味を理解している。この手紙に貴下は鬱陵島に居住するうちの日本人が撤収することを要求してまた日本警察の駐屯を言った。日本である撤収問題は2年前にもう論議した事がある。貴下側でその年9月私たちの最終公式手紙#99にところして答信をしなかったから私たちは貴下が私たちの状況を受諾したことで見た。この問題と係わって貴下から他の手紙を受けてみたら非常に驚くべきだ。日本人の定着問題は10年前の前鬱陵島郡守裵季周が人が住まない島を開発しようと計画した時点にさかのぼる。この目的を果たすために私たちは個人的に帰国の鬱陵島で自然的に伸びる木犀の排他的交易のために航海を要請受けた。それが日本である航海の手始めだった。あの時以降帰国の民間人たちも鬱陵島で航海して今日鬱陵島の状況になった。言い換えれば、その開発は私たちの日本人の航海おかげだと言うのが誇張ではない。
上の内容をよく見れば韓国側で日本である住人をもっと保護してくれなければならないことが正しい。ところでもう少しの利益が生じようと思うのに、貴国が条約の法規を根拠で私たち国民を撤収しなさいと言う。これは鬱陵島開発に対する貴国の思いやりが不足だということを見せてくれる。言い換えれば、私たち政府は鬱陵島のこんな歴史的な背景を考慮してくれというのだ。私たち日本警察の派遣と駐屯は朴再巡外務大臣が在任するうちに鬱陵島を姜良友が統治する頃に鬱陵島に居住する日本人を統制しようとする手段で発生した結果だ。今日、貴政府で“条約違反”で責めることは事理に当たらない事だ。貴下の手紙で“…韓国人と日本である間に紛争があれば警察は単純に日本人を助けて韓国人を逮捕して審問する…”と指摘したが、私たちは私たちの警察がそんな事をしたと信じない。私は何か間違ったと思うが、警察監督を送ってその警察を警告してたしなめるように送るつもりだ。したがって私たちは貴国政府でも島が鬱陵島監に言って寛大な法を執行するように期待して特に鬱陵島警察問題に対してそのようになるのを希望するところです。この報告書と係わって貴下の貴い高見を待ちます…”

“…より一層多くの日本人たちがこちら(鬱陵島)に来るようになると、悪い人々も来るようになることは自然な事でここで規制が必要にた。ここで日本人の商工団体が必要になったしいわゆる 日商組合が誕生するようになるのに、二人を選出して居留民を保護するようにした。しかし、居留者数が徐徐に大規模に、法的な強制だけでは統制しにくくなった。その上に大部分の移住者たちが無識で無知だったから、二つの集団ができた。強者が弱者を服従させて、謀の多い人々は無知な者を欺いた。また極端的な場合で、悪い人々は危ない武器で財産を強奪した。
良い人々は悪い人々を統制することができなかったからひどい被害を被った。したがって明治24年6月(1902年)、地域社会の重要な人々が集まって正常な人々と会議をして協会を結成することに決めた。老けて悪い人をかけて出すために彼らは会長と副会長を選出して給料はなしに顧問ひとりだけ給料を支払った…” (引き続き)

今年1月4日二つの集団の間に論難が起った。以前の協会長が伐採師たちを説得させて現協会を崩壊させようと思ったし、他の人々はその協会を去って味方で入って来るように説得した。現在の会長は仲裁を通じて問題を解決しようとすべての手段を動員して労力したが、失敗して自分たちが去る事にした。ここに鬱陵島駐在日本人たちは二つの集団で分けられた。居留民の3/4が協会を去ったし 1/4か残った。
二つの集団は営業取り引きだけでなく日常的な取り引きでも対立した。協會が衰退して栄えることができなくなったが、彼らは秩序を維持して絶対に相手集団に屈従しなかった。。その年4月23日外務省は鬱陵島に警察交番を建てることに決めた….“

(伏洞)– 韓国である 10人; 日本である2人
(中嶺)– 韓国である 30人; 日本である2人
(通亀尾)– 韓国である20人; 日本である 5 人
(窟巌)– 韓国である 7人
(山幕谷)– 韓国である26人
(香木洞)– 韓国である 17人
(新村)– 韓国である 35 人; 日本である 1人
(錐山)– 韓国である 7人; 日本である 1人
(千年浦)– 韓国である 6人
(天府洞)– 韓国である 16人
(亭石洞)– 韓国である20人
(乃守田)– 韓国である 11人; 日本である2人
(砂工南)– 韓国である2 人

(新里)– 韓国である 7人
(間嶺)– 韓国である 10人
(南陽洞)– 韓国である 57人; 日本である 9人
(水層)– 韓国である 1人; 日本である 1人
(台霞洞)– 韓国である 34人; 日本である 6人
(玄浦)– 韓国である 50人
(光岩)– 韓国である 10人
(羅里洞)– 韓国である 30人
(昌洞)– 韓国である 6 人; 日本である2人
(竹岩)– 韓国である 11人; 日本である 5人
(臥逹里)– 韓国である2 人
(苧洞)– 韓国である 62 人; 日本である 5人
どんな日本報告書では日本居留民たちが全体人口の20%に達したと言う。しかしaようさには200人の漁夫たちが渡って来てから人口が1000人に達する。今日1000人の韓国人たちが鬱陵島に住むのに、独島と鬱陵島官吏は鬱陵島道洞官庁でする。
1902には鬱陵島は日本警察によって統制される。1904年露日戦争の間、鬱陵島は日本海軍に占領されて3個の軍事警戒所と電信通信所が建設された。その後一ヶ月ぶりに独島は日本に編入されて韓国海岸への接近とその後一ヶ月ぶりに独島は日本に編入されて韓国海岸への接近と內陸地で進入が自由になった。(下の文書を見て)もちろんこの当時鬱陵島鬱陵島監は鬱陵島と独島を皆管轄した。1905年当時韓国水域で日本は漁撈と航海の自由がなかった。
日本外務省は韓国を過去植民地時代お引く労力して鬱陵島韓国の居留者を現在の海洋境目引く労力して言う。日本は島根県をけしかけて6世紀以降韓国地になった島の玄関をたたくようにしている。歴史は私たちに国境は固定されたのではなく流れることだと教えてくれる。海洋境目を植民地時代おりまたさかのぼって引くことはソ連共産主義にまた降伏することと違いない。韓国と日本は独島-竹島問題を解決するにおいて日本が最終的に東北アジアの状況は1905年当時の状況とはあんまり違いという事実を納得する時だけ解決されることができる。