政治的な観点で、私たちは国家的な次元で日本は独島が日本領土の一部と思わなかったし、これはここで見られる多くの歴史的な地図に現われる。地図1 地図2 地図3 地図4。私たちはまた日本の最高上の階が鬱陵島とその他島が島根県の一部ではないと結論付けた事実をこの文書を通じて分かっている。(リンク) このページは政治的な観点を扱うよりは、この地域に関して知識が多い日本の人々の観点を扱おうとする。この文書たちを通じて、私たちはこのような日本国的なたちの活動が日本の歴史的な独島に対する主張に対する根拠が有效なのかを調べようとする。
“韓国人たちと日本の漁夫たちはこの島をYangkodoと呼ぶ…”
この漁業指針では、1901年3月当時漁業指針に備えて発刊されたのだ。したがって独島資料はその前年度(1900年)に収集されたのだ。この短い内容は、日本がいわゆる“主のない地”と言った竹島-独島を編入する前5年前から、韓国は独島を認識していたことを確認させてくれる。また、それは鬱陵島にいる韓国人たちが1900年10月当時公布された勅令41号が知っていたことを見せてくれる。(リンクをご覧ください。)
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“…約 30-里鬱陵島東南の方、そして日本の隱岐州で北西方へおおよそ同じな位置に人が住まない島だ。天気が晴れれば山峯(聖人峯)でその島を見られる。
韓国と日本漁夫たちはそれを “Yanko”と呼んで、長さは約 10-choだ。海岸は屈曲がひどくて複雑でお舟たちが停泊することができるし風と波を避けることができる。しかし、火木を求めるとか、地を何何 shaku (1.0 – 1.5メートル) 深く彼にあたる適切な内容は次のようだ:
“…約 30-里鬱陵島東南の方、そして日本の隱岐州で北西方へおおよそ同じな位置に人が住まない島だ。天気が晴れれば山峯(聖人峯)でその島を見られる。
韓国と日本漁夫たちはそれを “Yanko”と呼んで、長さは約 10-choだ。海岸は屈曲がひどくて複雑でお舟たちが停泊することができるし風と波を避けることができる。しかし、火木を求めるとか、地を何何shaku (1.0 – 1.5メートル)深みで掘削をしても水を見つけにくい
そこには多くのあ海鹿が暮しているし島周辺には多くのアワビがい、なまこ、寒天などが多い。何年前。潜り装備を取り揃えたお舟が 山口県で漁業を出たが、彼らは多くの海鹿たちが水で跳びこむから漁業をまともにすることができなかったし、食べる水が不足で港に戻らなければならなかった。それは5月または、6月が海鹿たちの繁殖期だったからだはずだという結論を下した。
大分県で何年前から5月または6月に鮫取りを出たが、鮫取り漁具を設置する良い所がそこにあった。私たちは去る春にそこで帰って来た漁夫たちに問議をしたが、彼らは言うことが充分に良い所だと言いにくいというのだった。何故ならば彼はそこにただ2-3回行ったが、毎年何匹を捕ると言った。彼が当時言ったことは彼の職業的な観点で言ったことで、鮫と魚がどうやって暮すかどうかを分かっているし、これでその地域は漁業の可能性があることで見て将来に漁業基地として可能性がある。この島は業務に参考する価値がある。…”
独島の飲み物不足もここで言及された。これは日本本土で遠い所まで冒険をして漁業をすることが難しさを見せてくれたし、長い間独島に泊まることができないようにした。
この本は独島を日本の 黒竜会漁業指針書で鬱陵島と独島リストで扱っている。中央ページの上には鬱陵島とともに江原道を次の章で扱っている。その次ペイジエソブトグァ次の章では “-ヤンコ島(Yangkodo)” (竹島-独島)を簡単に扱っているし、次の章は韓国の本土江原道の竹邊を扱っている。言い換えればこの指針では独島を韓国領土としてまた列挙しているのだ。このページ自体で独島は “韓国業務指針書”に文書化されている。
“…Yankodo(独島)は、日本隱岐島と鬱陵島の中間にあり、30里の町にある。もし、係留場が浜辺に設置されることができるが、火木を求めにくいし、飲み物も求めにくい。アワビ、なまこ、寒天などを収穫することができる。たとえ多い鮫たちが水域に住んでいるが、あしかたちがこの地域にたくさん住んでいるから鮫を捕りにくい…”
この記録は鬱陵島と独島に関するすべての情報を提供する。それは鬱陵島の状況に対する真実な内容を明らかにしてくれて、そして韓国の問題として日本渡海者たちの何種類問題もある。また、そこには鬱陵島地域で数百 kmを航海して来た全羅道人々に関する話がある。そこにはまた独島漁業部分に関する簡単な内容もある。
この記録は鬱陵島と独島に関するすべての情報を提供する。それは鬱陵島の状況に対する真実な内容を明らかにしてくれて、そして韓国の問題として日本渡海者たちの何種類問題もある。また、そこには鬱陵島地域で数百 kmを航海して来た全羅道人々に関する話がある。そこにはまた独島漁業部分に関する簡単な内容もある。
(伏洞) – 10人韓国人; 2人日本人
(中嶺) – 30人韓国人; 2人日本人
(通亀尾) – 20人韓国人; 5人日本人
(窟巌) – 7人韓国人
(山幕谷) – 26人韓国人
(香木洞) – 1人7 韓国人
(新村) – 35人韓国人; 1人日本人
(錐山) – 7人韓国人; 1人日本人
(千年浦) – 6人韓国人
(天府洞) – 16人韓国人
(亭石洞) – 20人韓国人
(乃守田) – 11人韓国人; 2人日本人
(砂工南) – 2人韓国人
(沙洞) – 40人韓国人; 2人日本人
(新里) – 7人韓国人
(間嶺) – 10人韓国人
(南陽洞) – 57人韓国人; 9人日本人
(水層) – 1人韓国人; 1人日本人
(台霞洞) – 34人韓国人; 6人日本人
(玄浦) – 50人韓国人
(光岩) – 10人韓国人
(羅里洞) – 30人韓国人
(昌洞) – 6人韓国人; 2人日本人
(竹岩) – 11人韓国人; 5人日本人
(臥逹里) – 2人韓国人
(苧洞) – 62人韓国人; 5人日本人
この絵は鬱陵島に設置した日本海軍望桜たちが位置を見せてくれる。日本の望桜たちは “望桜”と表示されていて、そして私たちは 1905年地図が印刷した当時に 3個の日本軍隊望桜があることを分かる。
この地図の下には韓国と日本人たちの村位置を説明している。日本人たち村は “日本人部落居留”と記録しているし韓国である定着地は “韓人部落”と少なかった。翻訳は“..外国である地に居住した日本人と韓国の定着地
…”
これは明確に日本人たちの鬱陵島居住は通過者たちや、一時的な居住なのを分かる。日本の独島でこんな活動は大部分全面的に不法的な鬱陵島航海を通じて行われていたから、日本人たちは独島を日本の一部で見做さなかった。
また、島東約50海里には 3個小さな島々が “Ryanko-do” (独島)、と呼ぶのに日本の住人たちは独島(当時松島)と呼ぶ。ここにはアワビがいて、したがって何何漁夫たちがそこへ行く。しかし、食べる水は不足でそれは長い間漁業をするには不可能だ。彼らはこの島(鬱陵島)から4 ~5日とどまった後に戻って来た。…”
この距離は信じられない位に遠い約 550km距離だ。李奎遠の1882年測量と鬱陵島おこることはやっぱり記録した。韓国人たちは巨文島、初度、そして全羅道落雁でお舟で鬱陵島で航海して来た。李奎遠の記録は他の記録の中でこれら韓国木手たちを記録して豊かな鬱陵島木材を活用して舟を作ったと記録した。
右側地図には韓国の南側全羅道が桃色に表示されている。明るい緑表示はどんなにこれら勇ましい人々が鬱陵島に到着するためで見るに相当な距離を航海したのか可能な航路を表示している。
1883年、日本の渡海者たちは強制的に日本政府によって退去されたし鬱陵島渡海禁止令が下ろされた。しかし、今世紀に立ち入って日本人たちは韓国人を圧倒するようになったし日本警察が永久的に駐屯するようになって鬱陵島を統制するようになる。また私たちは日本人の独島活動は鬱陵島に民間である侵犯を通じて行われていることを分かる。
ページ 5
“しかし東嶋は、相対的に葦と共に低くて、その上は平たくて 2-3個の建物を建てるに値する。少量の塩分ある水が東嶋の東入口で出る。地表水は東嶋南側に “B”と表示した部分 5.4 メートルの下から出る。(添付されてからもページ 7 位を参照) それは非常に多い量で年中に乾かない。西嶋には明確に “C”と表示した部分に水が出る。(添付されてからもページ 7 位)。島周辺には散らばった岩があって、大きいものなどはその上に十枚近い畳みを広げることができるようだ。その岩たちはいつもそこに立っている。そこにはやっぱり多い数字のあしかがいる。お舟たちは二つの島を連結することができるし、そして小さなお舟は浜辺に引っぱることができる。そこにはいつも強い風が吹いて、あの時漁夫たちは鬱陵島に帰って来る。人々が言うのを彼らは鬱陵島から航海して来て、独島島に上がってあしか漁撈をする日本お舟たちとともに60~70個の石で穴蔵を作った。彼らはそれぞれの航海で 10日位とどまる…”
ページ 6
“そして彼らは多くの魚を捕った。そこにはよく40-50人の越える人々がいる時もある。彼が言うのは水が不足で何回島に渡ったと言う。…”
ここでまた独島は漁業とあしか狩りが成り立った基地だったと記録している。当時漁夫たちとあしか狩人たちは水が不足だったから島に長居をすることができなかった…”
鬱陵島の日本である不法滞留者たちはたかが島の状況に対しては少ししか分からない。彼らは普通鬱陵島の水域で季節に付いて漁業をした人々で、秋なら故郷に帰った人々臨時住人たちだった。当時朝鮮~日本の漁業協約によって、日本の漁夫たちは彼らが採取した海産物に対して税金を出さなければならなかった。しかし彼らは税金を出さなかった。彼らはこれら日本人たちを責めなかったしこの地域で状況に明るい光を与えた。それは不法的に漁業と木材を伐採する日本の人々が鬱陵島に住みながら、返って意図的に独島を日本地だと主張するようになったのだ。このような矛盾は鬱陵島に合法的に一年中暮して漁業と農業に携わった人々とは対立されるのだった。
日本の近くの本土で往復に300km以上航海する距離は、器具を取り揃えた日本漁夫たちに不毛で油気がない岩は有害なのだった。独島は東海の真ん中にある。独島周辺水域たちはよく非常に年中 150日雨が降る荒い海だ。この地域 85%はいつも雲が立ち込めるとか悲歌来て、雪が降る。独島は本質的にこの険難な環境で居住地を提供することができない不毛で油気がない岩たちが集まっている所だ。
独島の飲み物不足は独島(竹島)に対する状況を説明する 大部分記録で詳しく言及されている。独島の飲み物に関する一番良い歴史記録は日本戦艦対馬島丸の1904年11月記録だ。“…そこには山頂で流れる何個があるが、量が多くなくて飲料水源も海鹿たちの排泄物で汚染している。化学成分検査結果は下のようで、その水は飲むことができないのだった。…簡単に言って主な島は不毛で油気がない岩として、荒い海願うに露出して、居住するほどの大きさを万たち場所が珍しい。食べ物を沸かす燃料、飲む水、そして食べ物もない。”